こんにちは坂根です。もうすぐ今年の社内広報誌を作成するみたいで、コラムの原稿を書くように指示されたので書かせてもらいました。いざ文章を書いてみると、テーマが長引きそうで広報誌の紙媒体のコラムでは終わらなさそうなので、ブログにもアップして続きはブログで書こうと思います。
最近は、社会福祉や社会政策において「共生社会の実現」が平和で豊かな社会をつくりあげる大きなテーマになっています。
日本では世界的にもサルやその社会を研究し人間のことを知る学問が発達していて、それを通称「サル学」というのですが、今回からは、僕の拙い「サル学」の知識を使いながら「共生社会」の進化論的な優位性というものについて、ほんのちょっぴり考えてみたいと思います。
同じと感じるということ
難しい話はさておき、僕は、知人がバナナを美味しそうに食べているのをみると、おもわず、ほくそ笑んでしまいます。僕はバナナを食べるのが嫌いです。なぜかというとバナナを食べていると他人からみて、サルのように見られている気がするからです。知人をみてほくそ笑んでしまうのも、馬鹿にするつもりではないのですが、知人がサルみたいにみえて滑稽だからなのです。数十年昔、SONYのウォークマンのCMでサルが気持ちよさそうに音楽を聴いている風景に“音が進化した。人はどうですか?・どこまで行ったら、未来だろう”とクールなナレーションが入り何か深く考えさせられるとてもインパクトのあるCMがありました。CMが伝えたいメッセージは別だと思いますが、今のポケモンGOでスマートフォンを見ながら歩く人が問題視されているように、昔は街でウォークマンを聴きながら歩く人が社会問題視されていました。僕はウォークマンを聴きながら街を歩くのに抵抗があった人の内、いくらかの人はCMに影響され自分がサルにはなってはいけないと思ったのではないかと穿ってみていました。
人間とサルは動物の中では一番似ているので、どこか自分を映しているようで不思議な気持ち悪さがあります。実際、チンパンジーと人間の遺伝子は数パーセントしか違いがないそうです。それなりに似ていて同じに感じてしまうけども同じになりたくない。そんな、似ているものに対して、「同じ」と無意識で感じてしまうのは人間が発達させた部分で、自分と似たものに自分を映して「同じ」と感じてしまう能力はサルには難しい人間独特な能力です。
サル学の話に戻ると、動物の中で人とサルは他の動物と比べても脳が大きい(体重比)のは知っているとはおもいますが、脳の大きさはその種の社会の大きさと概ね比例するそうです。では、進化の歴史の中で、人の脳が一番大きいかというとそうではなくて、もう絶滅してしまったのですが、ネアンデルタール人の脳の方が大きかったと言われています。ですが、ネアンデルタール人は絶滅してしまいます。では何故ネアンデルタール人が絶滅して今の人間が残ったかというと、諸説はあるのですが、脳の使い方や種同士の関係の取り方に決定的に違ったようなのです。その違いは何かというと、極端な言い方をするとサルを含め人間以外の動物は「空気を読まない・読めない」のです。動物はいわゆる「KY」なんですね。
別の言い方をすると、人間は自然に対して「KY」ですから環境破壊なども引き起こすのでしょうけど…。それはさておき、人は他人のことを考えて、自分を他人に置き換えて、他人の視点で物事を考えることができ、それに基づいて行動できるようになりました。そうすることで、脳も効率的になり、社会との兼ね合いでみると、大きく効率的で豊かな社会を形成できるようになったわけです。
「他人のことを考えて、自分を他人に置き換えて他人の視点で行動する」ということは、「利他的な行動」や、対人援助の用語では「共感的に理解する」ということですし、一般的な言葉では「いたわり」、「思いやり」、「優しさ」などの思いや行動のもとになるものだと思います。キリスト教のキリストも「汝、自分を愛するがごとく他人を愛せよ」と言っていたみたいですし、どうも隣人愛もそうですし、「同じと感じる」能力が人間が発展した基本条件のようなのです。
「共生社会の実現」まではほど遠いかもしれませんが、「せふぃろと」の中だけでも、私の利益ではなく、「みんなと同じ」「他人の視点で考える」という意識を高めるところから始めていきたいなと思います。
つづく