せふぃろと利用者のM.Nです。
さて、今回も引き続き、うろ覚えながらの歴史に関連した内容です。
現在でも釣り人のことを「太公望」と呼んだりします。
では、なぜ太公望というのでしょうか。これについて書きたいと思います。
これは過去の中国で紀元前1100年ぐらいに実在した(とされる)人物の名前、と言いますか通称(あだ名)となります。本名は呂尚(りょしょう)、又は呂望(りょぼう)とされています。何せ3000年以上前の商王朝(殷:いん)から周王朝への移行期の人物ですので、正確な情報がないのでしょうか。
当時の商王朝の国王である紂王(ちゅうおう)は悪政を強いていました。この象徴ともされるのが「酒池肉林」と言われています。そして自分に反抗するであろう者を捕らえ、処刑するというようなことも行っています。
このときの弾圧を生き残った人物に後の周王朝の基礎を作った姫昌(きしょう)(周王朝初代の文王)がいました。
姫昌がある日狩りに出るために占いを行わせます。この当時は何でも占いが当たり前のこととして浸透しており、行事の前には成否を事前に占ったりしていました。
この占いの結果、「今日の獲物(手に入れるもの)は動物ではない。覇王之輔(覇者、王者を助ける人物)である。」と出ます。
これを不思議に思いながらも狩りに出た姫昌は、渭水(いすい)という川のほとりで釣り糸を垂れる一人の老人と出会います。これが呂尚でした。2人で話してみると呂尚の知識と知恵のあり方に姫昌は感嘆し、「貴方こそ太公(姫昌の祖父のあだ名のようなもの)が待ち望んでいた、国を隆盛に導く人に違いない。」として、呂尚を丁重に迎え、重臣として遇します。
つまり、太公望とは「太公(祖父)」が待ち「望」んでいた人物という意味で名づけられました。
太公望は姫昌の期待に応え、姫昌とその子姫発(きはつ)に献策を行い、姫発の時代に商王朝(殷王朝)を倒し、周王朝を起こす力となります。
現在、釣り人を太公望と呼ぶのは、姫昌と出会った時に太公望が釣りをしていたことからこの逸話が出来上がったようです。
本業以外で有名になった人物の逸話から言葉が生まれるのはそんなものかなと思いますが、釣りをしていたのは太公望だけではないのではと思います。
しかし、この時の出会いを考えると姫昌が狩りの獲物として呂尚を得たのか、呂尚が釣りの釣果として、姫昌を釣り上げたのか。どちらにしても結果的にWINWINの関係を得られたのが、歴史の一部となっているようです。
姫昌という次の時代を切り開く人物を釣り上げたという意味で「太公望」=「釣り人」のイメージとなるのでしょうか。
さて、この呂尚(太公望)には別の逸話もありますので、そちらもついでに。
呂尚は若い頃より学問に傾倒し、書物をよく読んでいたようですが、そのためか、仕事にあまり前向きではなかった様子。そのため、それに呆れ果てた奥さんは家を出て行ってしまうほどでした。
しかし、後年、周王朝の成立にかかわり、自らが諸侯(広い土地を治める豪族)の一人となったときに、出て行った奥さんがやってきて、よりを戻したいというようなことを言ったそうで。
その時、呂尚は手元にあった水の入った盆をひっくり返し、「この盆からこぼれた水を元通りにできたら考える」と言いました。奥さんは必死に水を掬い上げようとしますが、水はすぐに地面に吸い込まれてしまい、元には戻せません。それを見た呂尚は「つまりはそういうことだ」と言って取り合わなかったということです。
これが一度起こったことは元の通りにはできないことの例えである「覆水盆に返らず」の逸話となりました。
呂尚(太公望)とはこのような逸話を持つ人物でもあったようです。
以上、うろ覚えで「太公望」についてでした。